菊次郎はよく酒を飲むと、子ども達を前に座らせ、延々と説法を始める、
私は誰のためにこうして働くのか、子ども達に、私たちのためだと言って欲しいがために、疲れていたのでしょう
しかし、それだけ、自分の仕業に自信が無ければ出来ないことである。石と格闘し石の出来る仕組みを見極め、
石と言うのは珊瑚礁のことで、畑にある珊瑚礁を、ノミとセットゥや、ティガラとハンマーを使い
クワが立たない深さまで石を取り除くのです。その珊瑚礁は、出来た過程があり、どこにどうノミを打ち込んだら
最小の力で石が割れるのかよく熟知していたようですね、これは、また人の道にもたとえる事ができるのです、人
はまっすぐに普通育つのですが
何かの影響があるとそこで曲がってしまう、石は、自然の猛威で浸食されたりする、そこで成長が止まったり
弱くなる部分が出来てしまうのです、人は曲がったところで、自分自身がみたされたり、説法を受けることで
又まっすぐの道に帰る、がしかし、帰らない人間も出てきます、それはなぜか、自分から逃避するからです
逃避するには、何かしらの頼るところがあるから、そこから逃避するのですそしてそのままの道を歩んで行く
方もいます、その頼るところ、すなわち友です、その友の力量で、人は育つのです。
そこで
「水は、方円の器にしたがい、人は善悪の友による」
水は、どんな器に入れてもその器の形に自分を変えていきます、水は、その器に合わすこともできるのです
それだけ自分の意志と言うのを持たないことになるのでしょうか、いや違う、水はどんな場所でも、器でも
それに対応出来るということです、水を人にたとえ、人もその器(友)によって影響を受けるということですね
だから、良き友と出会えた時は、自分も成長するし、また自分の力で、友も成長するということです。
そして人は友の影響で我が身を変えていくのです、近年は、その友さえも見つけ出せない一時の快楽で
自分を安心させ、将来を見えない人が多いですね。最善の友、それはその人にしか分からないのです
上のティーチは、島の文献を探しても載ってないですね、日本のことわざにあるのかな?それとも
菊次郎が考えだしたのかな??定かではない。
ウメがよく言葉にしていた。これは、直訳すると、人の股を潜っても人の頭を飛び越すなということです。いつでもどんなときでも
したてにでていたら、いいということで、人の頭を越えるなということは、人を馬鹿にしてはならないという
ことですね、人を馬鹿にしたら、必ず仕返しがあるのです。そのことは、「テント ち チバ しると ドウ ち うちゆん」
(天につばを吐くと自分に落ちてくる)といわれます。私も、酒を飲むと勢いがつくのか、よく人を小馬鹿にしたり
することがありますが、後で後悔しますね、いくら言っても結局は、自分が損になるんですね、それは後で分かること
しかし、それをはじめから分かっていたら、こんな事も起きなくてすむのですがね。まだまだ、私も修行が足りない
んですね、反省!!!。