自叙伝

自叙伝

たんきょと読みます、これは永野青邑さんが私に贈った
その人から見ての私の姿だということです。感動!!


沖永良部島ホームページのWeb Masterです。拝見頂有り難うございます
昔は、長距離やってました、鹿児島県下一周駅伝もなんと連続5回出場しています、区間3位最高で12位になったことはありません、最低でも区間10位
沖永良部島で5回の連続出場したのは、私が最初です。エヘン
1500m最高タイム   4分19秒
10km最高タイム   32分29秒
20km最高タイム1時間04分25秒(佐々木ななえ(その当時日本で一番早かった女性に勝つ)
マラソン最高タイム3時間07分22秒(新報那覇マラソン2回出場・那覇マラソン第1回出場)
第1回玄海トライアスロン出場(1k・14k・5k)完走
トライアスロン徳之島2回出場(2k・90k・20k)完走

さーあなたも走りましょう

といろんなことにチャレンジしてきましたが、これもひとえに回りの協力があったからできたことで、私の快挙ではないことを申し添えます。


徒然なるままに書いてるので誤字・脱字など多いと思われます
前後から判断して読み進めて頂けるとありがたいです(笑)
誤字・脱字は修正しますのでご感想などとご連絡頂けるとうれしいですね

私が一番感動したことは、この自叙伝を印刷して、女子大生が持ち歩いていたこと、そのときは、えー何でー、その大学生と話をしてて、私とは悟られないようにね(笑)島にはいろんな人がいるんだよってね(笑)。その女子大生は今頃きっといい母になっていることでしょう。うれしかったなーありがとう、感動を私がもらった訳でしてーー。
修行時代
仕事面では、最初に高校卒業してその当時台風9号(沖永良部台風)が島を襲撃して島は壊滅的打撃を受け、私の家もつぶされてしまいました。島で鹿児島からきた大工に弟子入りして、社会人としてのスタートとなるわけです、大工を7年やりましたが、今でも一番我が身ついたのは、このころのことですね、一つのものを作り上げるに、大工の棟梁は、頭の中で計算し、まるで設計図が入っているかのようにやってのけます。大工の世界は、人間を育てるには、最高の場所です、適材適所 板の表裏上下をみながらきちんとはめると、半永久にその場にいつでも最高な状態であるのです、これを間違えると、必ずひずみができてしまいます、ご自分の家をみてみてください、わかるとおもいますよ!!。
大工の修行をしたおかげで、現在もその腕で自分の部屋とか子供部屋を作りました(やすくあげる工夫もわかるわけですね)現在の仕事にも十分生かせていけますね。大工に始まり、建築板金・塗装屋・左官・仮枠大工・港湾労働・土建屋・JA・配管工事・建築関係はだいたいやってきましたね。そして現在の職業についているのですね。
パソコンを覚える

さてパソコンはというと、昭和63年から始め、最初は、PC−9801RXでした。この機種で始めたのが、「えらぶ−NET」でしたね、1992年1月から24時間稼働2400bpsではじめ、その間に、町の文化祭で、デモをしたり、観光案内ソフトをつくったり、郷土教育になる方言のことわざ集をつくったり、子供の勉強用を作ったりで、ずいぶん使い回しましたね、現在はその時の1−2−3を覚えたことで、マクロを組んで仕事に利用しています、マクロをくめるようになれば一人前だという言葉につられ、いろんなマクロを組んだものですね。アマチュア無線log帳・給与差引簿・家計簿等


さて、今までに読んだ本ですが、雑誌は毎月買ってますね、これも隅から隅まで読んでいますが、一番印象に残っているのが、「青春の門」ですね、大工の時代に、昼休みに全号読みました、昼休みがくるのが楽しみでもありましたね、その当時、本は1年に自分の身長の高さは読めといわれるので、身長が170cmですので、読みましたね本を読むことで、おもしろいものが見えてきますよ!!。それから、「木のいのち 木のこころ」西岡常一は、宮大工の世界のこと 「いちずに一本道いちずに一ツ事」相田みつを は坊さんの修行のこと、「若き旅人たちへ」濱里忠宜 は教育のことなどですが、どれも印象に残る本です、他にもたくさん読みましたが、是非いろんな本を読んでみてください。

「木のいのち 木のこころ」は後2さつ西岡常一の弟子が書いた本もあります、木は良く子供にたとえられますが、曲がった木を直すことは出来ますが、直したとしてもまた曲がってしまうのです。曲がった木は曲がったなりに利用することで、その木の持ち味を十分出すことができるし、それをうまく利用する技術も必要になってくるのですね。木というものは、正直でそれを正しく使わないとあとで仕返しをされることになるのですね。木は生き物なのです、切り倒されても自分の本質と言う物を忘れないのです。木に学べ!そして木に教わるのです。
人のやっていることを盗め

技術は、人のやっていることを盗めと大工の世界ではいいます。これがどういうことかといいますと、ひとからまた先生から教えてもらったことはすぐに忘れてしまうということです、ここはこうするんだよ、こうして教えてやると早くできるし簡単であります、しかし明日にはわすれてしまていることになるのですね、ですから、人のやっていることを見せるだけでいいのですよ、そのことをさせてみるとはじめはできませんよ、でも考える力がついてくるということですね、世の中なにをするにしても考える力がなくてはなにもなりません、でも考えてさえおけばいいかというとそうでもないのですね、考えを一つ前まで判断できることがだいじになってくるのです、なぜかというと、先を読む力がないと無駄な事をやってしまうことになってしまうからんですね、無駄も必要なときもありますが社会人になって無駄はいいものではありません、私が、大工の修行をしてわかったことは、こんな事ぐらいしかありませんが、一つの仕事をやっていく時に大事なことだとおもいますね。このように、いろんな事をやってきましたが、やはり大工の時の修行のおかげでいろんな面に応用がとれますね、それも、棟梁がなにもかも教えなかったのがよかったのでしょうね、たとえば、とめを切るといいますが、棟梁は教えませんでしたんね、見せるだけですね、鋸の使い方が大事なのですね、ただまっすぐに引いただけでは、とめはきれいに合ってはくれません、(とめとは額縁の角みたいに直角につける切り方です)
自分に勝つ

長距離より自分を強くするスポーツはあるでしょうか、あるかな?。私が長距離を始めたのは、小学校6年記録大会の校内予選で5位になった事からはじまります、その時の記録大会でなんとビリから2番目、最後の人は転んでしまったのですね、それがなかったら私がビリだったのです。それから中学校・高校とずーーと走ってきましたが、社会人になって、少しずつ走りはじめ最初は、おもしろくなかったのですが、自分を自分でできることで売り込まないと世の中厳しい事をしり、走ることで自分を鍛えるという反面、名が売れることは有利になることすから、1日約20kを走り(朝6k 夕方14k)これが、毎日の基本メニューで、走り続けました、1位になることで「栄光と満足」をかみしめるようになり、いっそう励むようになり、自腹でいろんな大会に出かけていきました。「人に勝より自分に勝て」と世の中いいますが、これほど苦しいことはありません、ただ努力のみだということですね。また自分が努力しさえしていれば、いいのかというとそうでもありません、そのどりょくの陰には、どれだけ犠牲もあることでしょう、たとえば、私はそのころ大工でしたが1日の日当が4000円、これで大会にいくとなると1月の給料が全部飛んでしまいます、家に入れる金もないわけですよね、台風で家がつぶれ新築したので食べるのもやっとの生活だとおもいますよそれを支えたのが母だということにその気づかないがいまごろ気づくのですよ。
こうして、出場した大会で満足のいく成績が出せるようになり、どんな大会でも調整できるようになりましたんね、なにが大事かというと長距離をしていくなら。それは朝走ることです、そのことで精神力が鍛えられ人の2倍練習して一人前になれるということです、これが自分に勝ということなのですね、
インターネットを始める

インターネットは、1997年8月から、同僚からセットを譲り受け始めプロバイダー加入3ヶ月無料というドリームネットでいろいろ勉強したものですね、そのときは、寝るのは21時起きるのは3時で早起きは3文の得ということですね。パソコンでホスト局、インターネットでホームページ作るのも、島では誰もやってなかったので、これも島でやったのは、私が最初でした、いろんな障害もありましたし、参考に雑誌も結構買いましたね、独学で勉強する楽しさも覚えることができましたね。でもやはり、ホームページを見る人の立場になり、快適にみれるように常日頃から、考え軽く作っていますが、フォームは少しおそいでしょうが、がまんしてね!!。拝見頂ありがとうございます。
挨拶

木から学べと言いましたが、木は黙って居ますが何かしら教えてくれるのですね 私は、高校卒業してからすぐに大工の道へ進みましたが、最初から躓きましたね 挨拶が出来なかったのですよ、「おはようございます」「お先に失礼します」 「お疲れさまでした」言えなかったのですよ、喉までは息はくるのですが、声に ならなかったのですよ、気持ちはありましたけど、言えなかったのです、 はずかしかったですね、下を向いていましたからね、挨拶の必要な時は。 島で挨拶といば「おはようございます」「こんにちは」「こんばんは」ではないのですよ 「めーしおいせぇ」「あっしかでぇ」(前者は朝御飯いただきましたか、後者は 昼御飯食べた?)となるのですよ、昔からのいい風習で、近所つきあいのすばらしさ なのですが、社会へでてこんな挨拶をすると、「自分が飯食おうが食うまいがかって だろう」といわれてしまいますよね。世間では「挨拶は自分の為にする」と言われますが まさしくその通りなのですね、挨拶で朗らかになるし、1日頑張ろうという気持ちにも なりますよね。ずいぶん横道にそれましたが、さて私はと言うと約一ヶ月という間 挨拶出来ませんでしたね、まだ島に居ましたからよかったのですが、都会へいって居たら 大変なことになっていたとおもいますね。そのときの教訓が良かったので、今はちゃんと 挨拶ができるようになりましたね(あたりまえか!!)いまでも友達とか年長者に合うと 挨拶はしないですね、私は、ちゃんと出来るようになったからよかったのですが、最近 子供たちが出来ないですよね、挨拶が出来ないと損ですからね。人に負けてしまいますからね挨拶だけは出来る子供に育てたいものですよね。親の責任ってやつですかね。最近親の責任をはたさない方々が目についていらいらすることもありますね。が、仕方のないこと、親が教育を放棄しているように感じられてしまいますが・・・
人は見かけで判断すると言われますが、私を最初にみた方は、妙に冷たい人だなっって感じているということですね、何度か言われましたけどね(笑)でも、話をしていると、おもしろいと言われます、私は人は見かけだとは思いますが、私見たな者もいるのですね、どこで判断するか、その人が、人と話をするときに相手の目を見ているかそれだけでいいのです、目を見て話していたら、その方の事がわかると私は思うのですがね(笑)、いいわけになちゃってるかもしれませんがね(笑)
大工からみた教育(自然現象)

教育に関しては、いろいろと十人十色でしょうが、私の意見はとい いますと、最近の子供たちとよく言われますが、昔とそれほど変わってはいない ようにおもえますね、ただTVやマスコミで騒いでいるだけですが??。
私からみた教育とは、実践はむつかしいですが、大工の扱う木(板)というのは、よく子供たちの 教育に結びつけられますが、でもこれほど実践に難しいたとえは、ありませんよ。 たとえば、してはいけないことをしている子供をみて 注意をしますよね、注意するということが必要なんですね、目上の人から注意を促す、これ 以上大切な子供の教育があるでしょうか、木にたとえると、木をちゃんと家を建てるために使うとしますよ、(この木は子供にたとえると、今は悪ぶっている子供としましょうね。)その木は曲がった木ですが、なにもしないと、どんどん曲がってしまいます。そうすると家が傾く、まーそこまではないけどね(子供にたとえるとだんだん注意もされないのだからもっとやってやれーってなりますよね)、それを修正するのが、自然なんですね、雨が降り木に湿気を与えてくれる。これは自然現象ですよね、そうすることでこの木は、建てた時と同じようにちゃんと家の一部として家を守っていくのです。それが最近の大人たちが注意すらしないで「子供にだめだ 最近の子供は・・・」というのは、実は自分の愚かさ無能さを子供に見せているようなものだとおもいますね。そのもっともなことができないということは将来に夢がないということでしょうし、 まず最近の教師がそれをやらないですね、だから生徒から信頼もされないし、学校があれる原因になって いると私はみますが。この自然現象が今の大人たちにできないということですね。 教育は自然現象だってね、それを自覚してると地域もよくなっていくのだと思う。例外はもちろんありますよね。
My car
2代目私が若い頃乗っていた車です。まだ給与が3500円のころですからね ローンを組んで、買った中古のジムニー、車の入っていい海岸線によくいったものです、4WDですから、へっちゃらでしたね、リヤカーを つないで走ったりね、雨の日は大変でしたが、でも若さでしたからね。
2代目ジムニーの次はこの車です、そのころはやっていた バニングカー仕様にして島内や、与論・沖縄まで足を延ばし、それに寝泊まりし遠出をしたものです。後ろの絵は傘をイメージ したものですが「傘の修理屋ね」といわれたことも何度もありましたね。自分の考え、人の意見は聞かない、そんな時代の 面影がよぎってきますが、でも人間歳を取り、子供ができ、変わっていくものです、いつまでも若い気持ちで人生を過ごす よりは、歳とともに考え、自分に責任を持ち人生を楽しむそれが我が人生というものでしょうかね??あれから、何台車を乗り換えたかなー、数えることが出来ないくらいかなー、新車を乗ることはなかったですね、これからもないでしょうけどね(笑)現在はトラックですが、乗用車に比べると車高が高いので運転しやすさはありますね、今でもあこがれる車はあるスカイラインGT-R、俗にいうハコスカが好きだなー今頃走っている車を見かけることはほとんど無いが、いい車だと今でも思いますね(笑)。

再び走る
私も、40歳代、健康診断を受けたら、血圧が高い、医者から運動はしてますか そういえば最近運動をしないですね、昔を思い出して、走ってみるか、早朝走ることは さけた方がいいですよということでしたが、どうしても早朝にしか時間がとれないし まー起きてインターネットして1時間くらいしてから走るので、いいかと思い走り 始めましたね、走り始めると、昔を思い出すものですね、それに、呼吸方法など 意識しないのですが、ちゃんと昔のようにできるのは、私自身驚きでしたし、でも足が やっぱついていかないというのは、はっきりわかりますね、年なんだなーってね。 それでも、島である駅伝大会とか出ると、昔の走っていた先輩達も走っているし 懐かしいもありますが、それ以上に、競争意識が再燃するものですね、でも 笑って流せるのが、昔はできなかったことですが、今はそれを楽しむことが できるのです。
区間賞
和泊町で行われた新春駅伝大会で、40歳代の区間、昨年区間新記録で区間賞を 取った先輩より、1秒早くたすきを渡し、堂々の区間新記録で区間賞、 なにか今までやって来た私への賞だと感動しました。また娘の通う高校の 1500mに飛び入り参加して、5分10秒の記録(8位)、中学校時代4分50秒が 最高だったし、社会人になって4分19秒が最高、この記録を振り返り見ると なかなかすばらしい記録だと自分では納得しています。高校で飛び入りしたのには 親のがんばりを子どもに見せる事で子どもの心を育てるというねらいも少しはありました けどね。親の姿を見せて子どもは育てるものだと言うことを常日頃実践して 行くことが、親としてのもっとも大事な子育てでもあるのです。
50歳代1000m
私もいよいよ50歳になるわけだが、人生の大半を過ごしているにはちがいないだろう、80まで生きたとしてもあと30年、正月も盆も30回しか来ないことになる、いま思えば人生は短い、50歳になったので、早速町民体育大会に出場を依頼された、まー島内一周駅伝目指して練習しているわけだから、断る理由もないので、受けた、25年ぶりに町民大会を走る町民の前で走るのが久しぶりなので、緊張しますねーー、練習も思うようにしてないのでよけいに緊張が高まる、レースがスタートして、優勝は無理だと思っていたので、5番手位を付いて走る、前から一人一人落ちてくるので、ラスト1周で2番手、いけるかなと思い、ラスト100mでスパート、これだけ走れたのも久しぶりで、1位を獲得、ウイニングランを25年ぶりにしたなーー(笑)、でも走れるが、大会にでるとなると相当な練習量が必要になってくる、高血圧で薬を服用しながらだから、激しい運動は避けるようにといわれる、でも意識の中で同年代の中ならまだやれるとは思うが、練習がきついですねー(笑)年相応な運動を心がけたいものではあるが、そろそろ潮時をも感じながら・・・・
子育てに我思う
子供たちも成人して、自分なりの道を進んでいる、私は、子供たちに誰のためにやるのかだけを説いてきたわけだが、自分のためなら自分で考えて結論をだせと、人のせいにはするな、道を決める時も自分で決める、決めたら一生懸命やる、一生懸命やれば、道も開けるもの、どうしてもダメな時は人間には必ずある、そのときは、道を変えてもいいが、努力なしには認めないと、最近の親は、自分の自由な時間を得るために、子どものいうがまま、物を与え、自由を与えているように思える、私は、子どもをもうけたわけだから、子どもには責任がある、独り立ちさせるという責任がね、それは逆いえば、子供に社会への責任を持たせることにあるのだとね。
また、最近はこんな言葉を耳にする「人に迷惑をかけなければなにをしてもいい」「あなたに迷惑をかけましたか」ってね、これは我が儘としかいいようのないようにしか私にはとれないが、その人の人生だから、ほっておくが(笑)変にからんで痛い思いはしたくないのである(笑)。社会の一部、ましてや宇宙の一部と考えれば、宇宙から見れば、人間は見えない存在である、見えないから何でもやっていいと言うことではない、見えないものが物事を支えているというのもあるんだよね、大切な物は表にはでない、表にでている物は自分だけを表現しようとする、そうするとつぶれる、表にでないものはちゃんと基礎を作っていけるんだとね。たとえば、家の基礎、水道管などの、ことを考えてみましょうね。
自然農法
自然農法とは大げさではあるが、ここ6年前から無農薬無化学肥料の石川里芋の栽培を始めた、有機肥料を入れて耕し石川里芋を植えて、ビニールをかぶせ芽だしをして掘るだけ、堀るときに土の中の白いカビが多くある、掘っていて、これが自然というものなのかなと思う、成長期の茎や葉っぱを見ると黄緑、遠くから見るとやせてる畑に石川里芋を植えてってみたひとは思うだろうね(笑、思うつぼである(笑))自然の葉っぱの色は薄い黄緑である、化学肥料を入れて栽培している作物は、肥料焼けであることに気が付いてほしいと思いましたね。またこれがこうじてジャガイモには酵素を散布して収量を上げる工夫をしている、じゃがいもは今のところ化学肥料を入れないと収量があがらないから、化学肥料が入らない方法を試したいが今のところ時間がない、どうしていけばいいのかということは分かるが、実践してみないとなんとも言えないものである。 「奇跡のリンゴ」と言う本を紹介されて読んでみた、土づくりが作物作りにはもっとも大事な事だと言うことを読み、私がやっている、無農薬・無化学肥料栽培は間違っていないと、改めて再認識することができましたね。しかし、木村さんにはかないませんが、いつか、無農薬、無化学肥料で完熟マンゴーを作ってみたいものですね。楽しみがまた一つ増えた。今から準備しなきゃなーー(笑)

土着菌

やねだんの豊重さんの講演を聴き、これはすごいことだと思った、早速島で土着菌を探し、あるところにはある物だ、土着菌に米ぬかと島の産物である、糖蜜を水で薄めて3つを混ぜる、温度が上がる約60度くらいはあると思われる(温度計がないので計れないが)素手で混ぜると熱くて混ぜることができない、手袋をしてやっと混ぜることができた、これを一週間続けると安定してくる、これを牛に与えることで、糞のにおいが軽減されるというらしいので、今(2009年)実験中であるが、確かに効果はあるような気もする、今度はこれを作物に利用したいのだが、20%くらい混ぜて見たいが、量が思うようにできないので断念しているとこである。知り合いの運転(何時間も運転頂ありがとうね)で豊重さんに直接お会いできる機会があったので、その辺をお聞きした、1uあたり5キロは土着菌堆肥は必要だろうと言うことであったが、そうなると相当数いることになるなー。米ぬかは島にはないので、島にある産物で培養出来ないかと考えたのだが、バカス(サトウキビを絞った残りかす)は糖も少しはあるわけだから、一石二鳥だということになるのではないかと思いついたが、実際にやって見ると、バカスだけではうまくいかない、やはり糖蜜を入れることで発酵してきた。島では、土着菌を作っているところがあるったんだよ(忘れてた(笑))、15キロ1500円、それを利用して堆肥を作ってみよう。土着菌と牛の糞、油かすを混ぜて、ブルーシートをかけておく、約1ヶ月後には堆肥が出来る予定であるが・・・試験中・・・・・
思い立ったら書き足して行きますね(笑)私のくだらない視点におつきあい頂ありがとうございます。
我が走力を振り返る

記憶があるのは小学校6年くらいからの記憶しかないが・・・、小学校6年の記録会に校内の予選会を勝ち抜き、町の記録会に出場することになった、800mだった気がするが・・・結果はビリから2番目、後ろの方は転んだから最後尾だった、転ばなかったら、私がビリであったわけである、こんなにも悔しかったことはなかった。
中学時代では、いじめにもあった気がするが、追いかけ回された記憶は少しある、逃げ足が早かったのかな?(笑)島内一周駅伝にも出場、全く知らない知名町まで自転車で行き中継点だろうと待っていたが誰もこない、中継点はまだ2キロも先だった、試走だったのでよかったが(笑)、記録の記憶はないが・・中学時代芽が出ることはなかったと思う、学年でいつも4・5番手だったかな?
走るために地元の高校へ進学、1年高校駅伝補欠・県下一周駅伝補欠場補欠でもいい勉強ができた、補欠になって初めてレースや、周りの人の練習方法とか見ることができて自分の今後の経験に役立ったように思う、2年、高校駅伝6区出場、3年の先輩が、1区6位の快走、総合9位、県下一周駅伝補欠、3年高校駅伝4区出場、県下一周駅伝補欠、駅伝大会では、みんないいかっこしていた、私は、上下980円のジャージだったが、劣等感は感じなかった、かっこで走るわけじゃないとね、でもかっこいいのにはいいよなーー(笑)テスト期間は、国頭から片道11キロ何度か走っていったが、力がつくことはなかったなー、高校3年9月9日、沖永良部台風襲来、島の大半は全壊・半壊、体育祭中止、学校は一週間休校、我が家もつぶされ、住む家が無くなったが、しばらくは傾いた家に住んでいたが、町の配慮で仮説住宅が敷地内にできた、私は、自分で小屋を造りそこで寝泊まりをしていたなー(夢は大工になりたかったので、自分で考えて作った)(笑)そんな中、親父は毎日酒浸りで、新築は母親に任せたままで、できあがった新築の家には入ることを倒れるまで拒んでいたが、春先、倒れて寝たきりになり、約1年の闘病で享年70歳であった。親父の教育とか菊次郎の伝言に書いてあるので読んでくださいね。私は、パン屋に就職を希望したが(なぜパン屋とかいうと、そのころは、長距離を続けたいと思っていたからでもある)、親父が倒れたので、島に残り、台風で壊れた家が多く、建築ブームで、大工の見習いに入ることにした、それは前述してあるとおりだが、お読み頂けたらうれしいですね。
社会人になり、それから髪を伸ばし、そのころは肩まであった、人と同じことをすることがいやだったのかもしれない、私は私だという考えが強かった時代でもある。今でも変わらないが(笑)。髪を後ろで結び大会などに出場していたなー、そのころから毎朝、片道3キロある神社までお賽銭を持ち台風の日以外はほとんど通ったものである。どれだけ寄進したことか(笑)なぜ髪がながかったかというと、キャロルとかにあこがれてもいたのだと思うロックブームだったしね、ちなみに私は楽器は全くできない(笑)、夕方も2日おきには走っていた、社会人になり、疲れた時ととかは、無理して走ることはなかった、無理すると足を故障したりするからね、そんなときは芝のグランドを1時間走とかやっていた、走る距離は、12キロから16キロくらい、たまには20キロも走った、必ず人通りの多い県道を好んで走った、なぜか、人がいないところを走ると力を抜くことも人間だからある?(笑)人が見ているとそういうわけににはいかないものである、同じ方と結構あうから、直接あった時などに、励ましてくれるので、すごくうれしかったものである。人は人に支えられて生きていくものであると、思っていてもなかなか実感できないものであるが、うれしかったですね、また、大会に自費ででる時になどは行って来るとあいさつに行くと餞別をもらったりとね、励みになったものである。自費での大会というと、鹿児島市であった(いま開催してるかわかりませんが)20キロ大会とか、鹿屋の10マイルレースとか、現役のころは毎年出かけていったが、そのころは日当で働いていたので、1日休めば5000円の収入はない、おまけに旅費や宿泊費は自腹なので、母親には迷惑をかけたといま思えば申し訳なかった、そんな中、先輩達と約束をした、そのとき日本で一番早い女性に勝てたら、先輩達が、私に、ジャージの上下をプレゼントすると、負けたら私がおごる約束をして望んだ、そのときのジャージはいまでも大切に大会などでは着けていき、先輩達と話をすることにしている、自分の気持ちを忘れないためにね。そんななか、自分の頂点はこれくらいだろうと、長距離を引退することにした、それは、自分では力が一番強かったときのことである。25歳のことであった。(ここでいう力とか、走る力、いわゆる走力のことです)周りからは罵倒されたが、一度決めたこと、約15年は大会にでることは無かった。40歳になって、もう周りも私のことは知らないから走るかって走ったら、復活したかーってね、そのときは、笑ってごまかせるようになったから、私もだいぶ大人になったなーってね(笑)、楽しく走ることができた、これは若い頃の自分には考えられないことでもあった、あれから10年、もう50歳そろそろ本当に引退すべきだと身体が言うことをきかないので、本気で考えることにしよう。
練習のこつを私が実践したことをお話しましょうかね。なぜ毎朝走るか、それは精神を鍛えるため、スタートラインに立ったときに、私はこれだけやってきたわけだから、ほかの人にに対して自信がもてると共に緊張を和らげてくれるのだと感じている、一流ランナーは必ず朝も練習するんだよね。それに練習の方法を一つ、坂道や苦しいときには吐く息を強く出す、これはすべての競技に言えることだと思うのだが(走る以外真剣にやってないので推測であるが)たとえば水泳、おそらく吸うことはしないだろう、吐くだけで、次呼吸するまでの酸素は十分に杯の中に入ると思われるのだが??。長距離でも吐く方を強くするだけで呼吸のリズムや、走るリズムをうまくとれるようになる、人間は吐くことがもっとも大事なことである、過呼吸という症状があるが、これは酸素を吸いすぎることでおこるのだと思う、落ち着かせ吐くほうに意識を集中させれば治るのだと思うが、私の私見であるが。練習の仕方をもう一つ、坂道を上りきったら、100m位は少しペースを上げる、苦しいときにこそ練習になる、たいていのランナーは、登り切ると少しペースが落ちる、苦しいのはみんな同じこと、だったら、苦しいときにもっと苦しさを耐えて押せることができれば、レースの時は楽になるだろうとね、そんな練習をやってきたものである、指導者もない、己の考えでするしかなかったんだよね、また県下一周駅伝では、2月の第2土曜日から駅伝が始まる、1月1日から駅伝に出発するまでの約40日間に、約525キロ走る、この距離は島から、鹿児島までの距離である、それを走って着いたと自覚することで、自信もつく、ついたら調整に入る2日もあれば十分だった。だから県下一周駅伝では失敗することは、1回を除いて無かった、その1回は、1日目走って終わって、足裏に痛みを感じ、3日目でも痛みがあり、この1区間だけが苦しかったのを覚えている。
己には負けないそれが長距離の極意のような気がする
大工の修行時代
私が弟子入りしたのは、18歳の春、高校卒業と共に、島へ来ていた棟梁の下に弟子入りした、その当時棟梁は26歳であったと記憶しているが、前述しているところもありますので・・・。お昼休みにみんなが休憩していたので、私も、弁当を食べて昼寝をしていた、棟梁に弟子に休憩があるかってね、驚きの言葉であったが、考えて見ればそうなのかなって!!、ノミやかんなを研ぐんだって、弁当を食べたら、すぐ研ぎにはいる、ノミの裏を裏押しというがこれを鉄板の上で砂鉄で研ぐのですが、これがそう簡単には出来ないものである、毎日汗だく、毎日研いでいくと、裏押しをすることが結構ある、かんなの時は、両腕が相当疲れる。裏押しが無いときは、研ぎに入る、まっすぐ研がないといけないのですが、曲がる(笑)、「おまえの性格が曲がってるから、研ぎも曲がるんだと」言われればそうかなーって(笑)思ったりもする、棟梁が研ぐと、1日使っていても、使える、私が研ぐと、柱を1本仕上げると、もう研がないと仕上げにならない、こんなにも違うものだと、研ぎは5年7年とかかるらしい、私は、2・3年しかしてないので(笑)。
弟子になったのだからと、両刃のこぎり、ノミ、かんなを買ってもらった(でも、私の給料から引かれるわけだから、買わされたが正しいのかな(笑))。それも棟梁の物よりも高いやつらしい、さすがに目立てはこの両刃のこは出来ない、この高い両刃のこで棟梁がとめを切ると見事にあう、同じ両刃のこで私が切るとあわない、なぜー考える余地などないのだが、経験が違うわけだから・・・その断面を見ると、中央部分がほんの少し、1mmも無いほどへっこんでいる、こういう切り方をしたら、外から見たら完璧にとめがきれいに見えるんだよね。棟梁は、弟子には自分の物よりも高い物を買うということを聞いた、なぜか、期待もあるからとからしいが(笑)実際、いい物を使うと仕事はきれいになる、そんな心構えもを教えてくれているのだろうね。


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